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家族って何だろう ― 京都小学生殺人事件に思う ―
家族って何だろう
― 京都小学生殺人事件に思う ―
(ステップファミリーにおける家族システムと心の力動)
痛ましい事件である。
どのような事情があったとしても、子どもの命が奪われることは決して許されない。
全貌が明らかでない中で断定的に語るべきではないが、
それでもこの出来事は、現代の「家族」というものを考えざるを得ない重さを持っている。
私はこの問題を、善悪や感情だけでなく、あえて「構造」として捉えてみたい。
近年、離婚や再婚は珍しいことではなくなった。
子連れ同士の再婚、いわゆるステップファミリーも増えている。
大人同士にとっては、再出発であり、支え合いであり、合理的な選択でもある。
子どもにとっても「両親がいる形」は一見望ましいように見える。
しかし、ここに一つの見落とされやすい前提がある。
それは、
家族は“制度”で成立するのではなく、“時間”で成立するということだ。
子どもはすでに、母親(あるいは父親)との長い時間を生きている。
そこには言葉にならない蓄積がある。
一方で、新たに入ってくる大人は、その時間に「途中参加」する存在である。
にもかかわらず、現実にはこうなりやすい。
「今日から家族です」
「今日から父親です」
だが、関係性がないところに役割だけが与えられると、必ずズレが生じる。
子どもからすれば、
「突然現れた他人が、父親のように振る舞う」
という感覚になり得る。
この違和感は、決してわがままではない。
むしろ自然な反応である。
では、なぜ歪みが生まれるのか。
それは、大人側の「善意」と「期待」にある。
・家族としてうまくやりたい
・子どものために父親になろう
・正しく関わろう
これらはすべて善意である。
しかし同時に、
「家族になりたい」という大人の願いが、
子どもの準備を待たずに先行してしまう
という構造を生む。
ここで起きるのは、単なる衝突ではない。
家族システム全体の“再編”である。
・子どもは環境の急変に適応を迫られる
・実親はパートナーと子の間で揺れる
・継親は役割と拒否の間で葛藤する
・親族も立場が曖昧になる
つまり、
関わる全員が同時に「適応する側」になる
その結果、誰にも余裕がなくなり、
本来なら支えになるはずの周囲も機能しにくくなる。
こうした中で、私は一つの視点が重要だと感じている。
それは、
最初から「家族」になろうとしないこと
である。
極端に言えば、
「足長おじさん」のような距離感でもよいのではないか。
・踏み込みすぎない
・役割を急がない
・関係を押し付けない
まずは「信頼できる他人」として存在する。
そこから時間をかけて、関係が育てばよい。
もちろん、それだけでは不十分かもしれない。
いつまでも距離を取り続ければ、関係は深まらない。
だからこそ必要なのは、
段階である。
- 侵入しない(足長おじさん)
- 信頼される他人になる
- 限定的に役割を共有する
この順番を飛ばしたとき、関係は壊れやすくなる。
そしてもう一つ、見落としてはならない点がある。
それは、
時間の問題である。
籍を入れてから数ヶ月。
この期間は、関係が成立するにはあまりにも短い。
むしろこの時期は、
「家族になる期間」ではなく、
**「ズレを観察する期間」**である。
ここで大人側に、
「今は仕方がない」
「すぐにはうまくいかない」
という姿勢が持てるかどうか。
この違いは決定的である。
それでも、うまくいかないことはある。
どれだけ丁寧に関わっても、関係が成立しないこともある。
そのときに残されるべき選択肢は、決して暴力ではない。
距離を取ること、離れること。
それもまた、大人の責任である。
結局のところ、
「家族とは何か」という問いに明確な答えはない。
しかし、あえて言葉にするなら、
家族とは、
時間をかけて境界を調整し続けた関係性のシステムである。
そしてもう一歩踏み込むなら、
家族は完成させるものではなく、
未完成のまま耐え続けられるかどうかで決まる。
今回の出来事は、その難しさと、
そして向き合うべき現実を、強く突きつけているように思う。