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パラリンピックという違和感
パラリンピックに想う ~お・も・て・な・しではなく、お・互い・様の精神~
誤解や不快感を与えないように最初に僕の結論をいいます。
オリンピックで金メダルをとる人は、超人、スーパーマンであり、別格です。
それ以外には健常者も障害者もない。
これが私の基本的な人間観であり、
医療の現場に身を置く者としての視点です。
世間では、オリンピックを「健常者の大会」、
パラリンピックを「障害者の大会」と明確に二分し、
後者を「感動の物語」として称賛する風潮があります。
しかし、私はこの構造そのものに強い違和感を抱いています。
人類の身体能力の極限に達した一握りの「スーパーマン」を例外とすれば、
残りの99.9%の人間は、大なり小なり誰もが不完全な存在です。
走るのが極めて遅い人、空気を読むのが苦手な人、
車いすを必要とする人、目が見えにくい人。
これらはすべて、人間が持つ多様な「凸凹(でこぼこ)」のグラデーションに過ぎません。
それにもかかわらず、パラリンピックという「別枠」をわざわざ作り、
健常者が上から目線で「障害があるのに素晴らしい」と消費する構図は、本当にフラットな社会と言えるのでしょうか。
かつてオリンピックを契機に「お・も・て・な・し」という言葉が流行りました。
しかし、現在のパラリンピックや「合理的配慮」のシステムに感じる違和感は、
まさにこの「もてなす側(持てる強者)」と「もてなされる側(持たざる弱者)」という、
上から目線の非対称性にあります。
白黒をはっきりつける西洋的な二元論の思考で
「配慮という名のもてなし」をルール化(義務化)した瞬間に、
現場には「配慮されて当たり前」という権利の突っ張りと、
「なぜ自分たちばかりが負担を負うのか」という不満の分断が生まれてしまいます。今、世界中で起きている暴動や、
日本の職場で起きる静かな摩擦の根底にあるものは同じです。
私たちが本当に立ち戻るべきは、
上辺だけの綺麗事の「おもてなし」ではなく、
東洋の陰陽二元論に根ざした「お・互い・様」の精神ではないでしょうか。
東洋の思想でいう「足るを知る」とは、
決して「欠けた円のままで我慢しろ」という静止した諦めではありません。
そこには、絶え間なく移り変わる「時間」という要素が含まれています。
それは、まるで「月の満ち欠け」のようなものです。
三日月を見て、私たちは「欠陥品だ」と絶望しません。
なぜなら、時間は流れ、
いずれ満月へと満ちていくプロセスの中にいることを知っているからです。
人間も、社会も、この満ち欠けのサイクルの途中にいます。
ある時はバリバリ働いて社会を支える「満月(陽)」のフェーズにいる人も、
老いや病気、あるいは環境の変化によって、
いつか必ず誰かに支えられる「三日月(陰)」のフェーズを迎えます。
逆に、今は何かが凸凹で「欠けている」ように見える人も、
長い人生の時間軸、あるいは世代を超えた循環の中で、
別の誰かを支える側へと回っていきます。
東洋の「お互い様」とは、
その場限りの「Give and Take(貸し借り計算)」ではありません。
「今、陽の季節にいる自分が、陰の季節にいる人を支える。
なぜなら、いずれ自分の季節が移り変わった時に、
巡り巡って次の世代や別の誰かに支えられるからだ」という、
大らかな時間の巡り、エネルギーの循環そのものです。
「配慮して当たり前」と権利を主張する必要もなければ、
「配慮させている」と上から目線で憐れむ必要もない。
お互いの凹凸が、時間の流れの中で組み合わさり、
全体としてなんとなく調和(和)が取れていればそれでいい。
当院では日々、様々な特性や悩みを抱えた患者さんと向き合っていますが、
私たちが目指すべきなのは血の通わないシステムに依存した「おもてなし」の社会ではありません。
誰もが時間という大河の中で満ち欠けを繰り返す同じ「普通の人」として、
お互いの不完全さを大らかに受け入れ合う「お互い様」の循環です。
綺麗事の「共生」という言葉の裏にある違和感について、皆さんはどう考えますか。